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三角西港の歴史・文化財指定

2023年04月18日更新

三角西港

      三角西港は、背後の山を削り海を埋め立てて新たに築造された、明治期の最先端の港湾都市です。

      明治17年(1884年)に着工、明治20年(1887年)8月15日に開港しました。

      熊本県の貿易港として九州一円にその名を知られた港部分と、新たに造られた都市部分があり、どちらも当時の最新の技術を用いて造られました。現在も明治期の港湾都市がほぼ完全に残っています。

当時の新聞によると、沖合に18隻の蒸気船が停泊し開港を祝い、埠頭沿いは夜になっても提灯の明かりが消えることなく祝賀行事が続いたとあります。三角西港 全景写真

三角西港の歴史

   熊本県は良港に恵まれず、明治になってもその中心港は、熊本市の坪井川河口にあたる百貫石港(現在の熊本港付近)でした。明治13年(1880年)、熊本県議会議員白木為直は、熊本県における貿易港の必要性を建議し、これを受けて当時の県令富岡敬明は、政府から派遣されたオランダ人水理工師ローエンホルスト・ムルドルに調査を命じました。ムルドルは丹念な調査を行った結果、百貫石港は遠浅で修築には不適であるとの見解を示した上で、宇土半島の先端に位置する三角の地は水深深く、潮流穏やかな天然の良港であり大型船舶も入港可能であるため、熊本県の国内外の貿易港として最適であると進言しました。

    明治17年(1884年)3月、熊本と三角を結ぶ道路工事が着工され、同年5月からは港湾の工事も始まりました。

   三角西港の特筆すべき点は、山を削り海面を埋め立て、近代的な港湾都市を建設したことです。

   ムルドルの設計によれば、曲線を多用し、水路幅・道路幅ともに当時の日本の基準をはるかに超えたスケールで描かれました。この設計を忠実に施工したのが、長崎市の大浦天主堂、グラバー邸等を手掛けた小山秀(こやまひいで)率いる天草石工たちでした。彼らは、切り出した石材を丹念に仕上げ、当時の日本では見られない曲線を多用した加工で施工を行いました。天草石工たちが設計図を基に、西欧技術を巧みに取り入れ、日本の伝統技術を遺憾なく発揮したことが伺えます。

   工事着工から三年後の明治20年(1887年)8月に三角西港は開港しました。

   埠頭沿いには倉庫が立ち並び、埋立地には洋風、和風の建物が整然と建ち並びました。明治22年(1889年)には国の特別輸出港に指定され、米、麦、麦粉、石炭、硫黄などが中国の上海等へ輸出され、熊本県はもとより九州の一大集散地となりました。特に石炭については、長崎県口之津港の補助港として、三池炭鉱の石炭を中国の上海へ輸出しています。当時の石炭輸出は、三池炭鉱からいったん貯炭場へ仮置きし、それを沖合に泊めてある大型船に積み込んで、三角税関の許可を得て、さらに口之津港の税関の許可を得て上海に輸出していました。

   その後、宇土郡警察署、三角簡易裁判所、宇土郡役所が開庁し、貿易、行政、司法を備えた都市として発展していきました。

   しかし、静穏なはずの港の潮流や風が思いのほか速く、船がうまく着岸できないことが多かったため、港として使いにくいという声が上がるようになりました。さらに明治32年(1899年)、九州鉄道が現在の三角東港付近で終点となり、三角西港までは延伸されなかったことも影響し、国の重要港としての役割は東港へ移転するようになり、三角西港は次第に使われなくなっていきました。しかしながら、そのおかげで明治期の石積み埠頭を始め、当時の施設がほぼ原形のままで残されることとなりました。また、三角築港百周年記念となる昭和58年(1983年)ごろからその存在意義が見直され、開港時の建造物復元や一帯の整備が行われ、現在に至っています。明治期の石積み埠頭を有する港が完全に現存するのは、日本でここだけです。

三角西港を構成する主な建造物

  日本で唯一残る明治期の石積み港湾都市である三角西港には、歴史的建造物が多く残されており、貴重な文化財として以下の指定を受けています。

  • 国重要文化財:「三角旧港(三角西港)施設」(埠頭、直線排水路3所、道路橋(石橋)4基、後方水路)
  • 国重要文化的景観:「三角浦の文化的景観」(三角西港を含む周辺区域)
  • 国登録有形文化財:旧三角海運倉庫、龍驤館、旧宇土郡役所、旧三角簡易裁判所
  • 宇城市指定文化財:旧高田回漕店

 

文化財指定状況の説明画像 詳細は本文に記述しています。

埠頭 (国重要文化財)

埠頭の写真

  明治20年(1887年)に完成。延長756メートル。岸壁部分は16段の切石によるから積みであり、天端には、3尺×3尺、厚さ1.5尺の1畳石といわれる大石を交互に並べ、さらに石材の自重により安定させています。開港時は埠頭岸壁に3か所の木製浮桟橋が設置されていましたが、現在は残っていません。

 

 

西端排水路(国重要文化財)


西端排水路の写真

  明治18年(1885年)の三角西(旧)港第1期工事にて完成。延長約50メートル。埠頭の切石積みとは違い、日本の伝統的な工法の布積みで仕上げられ、底部は乱張の石がほぼ水平に敷かれています。上部になるにつれて石積みはやや傾斜し、地面上には切り石の2段積みによる手すりが積まれています。手すりの最上部は、石材の角を落とし丸みを帯びるよう加工されています。

 

 

西排水路(国重要文化財)


西排水路の写真

  西排水路西側護岸は明治18年(1885年)の三角西(旧)港第1期工事にて完成。底盤及び東側護岸は明治20年(1887年)の開港時に完成しました。延長約133メートル。背後の丘陵部から埠頭までほぼ南北方向に伸びており、下流側に向けてわずかに末広がりとなる平面形状で、布積の両側壁にたるみをもたせた三面石張造りです。

 

 

 

 

 

東排水路(国重要文化財)

東排水路の写真

  東排水路は、明治20年(1887年)の開港時に完成しました。延長約154メートル。山側終点部分では、旧宇土郡役所、旧三角簡易裁判所へ通じる石造りの階段に沿って造られた斜面上の排水路とつながっています。これは、後背地に降った雨水が、鉄砲水となって街区へ流れ込まないように、東排水路を通じて雨水を海へ排水することを目的とした構造です。

  西排水路同様、埠頭までほぼ南北方向に伸び、下流側に向けてわずかに末広がりとなる平面形状で、布積の両側壁にたるみをもたせた三面石張造りです。

後方水路(国重要文化財)

後方水路の写真

  市街地の背後の山すそに沿って設置された延長813メートルにおよぶ石造りの排水路。底面から手摺までの高さが平均2.2メートル、底辺の幅が平均1メートル、上部の幅が平均1.9メートルで随所に排水口を設けています。

  反り返るように石を積み、線形は地形を考慮して、街区を囲むように曲線的に配されています。後方水路を3本の直線排水路につなげることで、山や市街地からの雨水や土砂を効率的に海へ流す工夫がみられます。

 

 

 

道路橋(石橋)4基(上から一之橋、二之橋、三之橋、中之橋)(国重要文化財)

一之橋の写真

二ノ橋の写真

三ノ橋の写真


中ノ橋の写真

   明治18年(一之橋)、明治20年(二之橋、三之橋、中之橋)に架設された石造りの道路橋。道路幅は約11メートルもあり、築港当初から当時の一般的なスケールを超えるゆとりのある設計であったことが伺えます。一之橋、二之橋、中之橋は、現在も国道57号線上の橋として、また三之橋は熊本県の道路上の橋として供用されている現役の道路橋です。

旧三角海運倉庫(国登録有形文化財)

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  明治20年頃に建てられた土蔵造りの荷揚げ倉庫。三角西港には埠頭沿いにこのような倉庫が数多く立ち並んでいました。昭和63年に復原を行い、歴史資料を展示する施設として整備。その後、平成11年に厨房施設を併設し、レストランとして現在に至っています。

 

 

旧高田回漕店(市指定文化財)


旧高田回漕店の写真

  回漕店とは、船で運ばれる荷物の配送に関する采配を行う回船問屋のことです。

  高田回漕店は、熊本市に本店を持ち、三角西港開港と同時にこの地に進出しました。4隻の汽船(正義丸、播磨丸、明淳丸、筑後丸)を所有する運送会社であり、商社でした。1階は海運業事務所、2階は旅館として使用されました。特に2階の6室はすべての部屋が床の間を持ち、独立して使うことができました。平成10年に復原を行い現在に至っています。

 

旧宇土郡役所(国登録有形文化財)


旧宇土郡役所の写真

  明治33年に、宇土郡役所が宇土町(現在の熊本県宇土市)から三角西港へ移されました。その後、明治35年に現在地に移転新築されました。木造平屋建てで、外壁は漆喰により石造りのように仕上げられました。また、半円形アーチのついた縦長の窓が上下に開閉するなど、日本人大工が洋風建築技術を修得した技術的変遷を示す顕著な例です。同時に建造された門柱・石垣も現存しており、これらも国登録有形文化財に指定されています。

 

 

龍驤館(りゅうじょうかん)(国登録有形文化財)


りゅうじょうかんの写真

  明治天皇即位50年記念として建設が計画されましたが、明治天皇崩御のため計画を変更し、明治天皇の頌徳を記念する館として、大正7年に完成しました。

  明治天皇の御遺徳をしのび、併せて教育参考品や物産の陳列を行うことで、教育勧業の振興を図ることが目的とされていました。また、公会堂として各種会合に利用されました。

  龍驤館という名称は、明治5年に明治天皇がお召艦「龍驤」(肥後藩献上の軍艦)で、三角港湾内に仮伯されたことに由来しています。なお、この時には、明治天皇とともに、西郷隆盛、東郷平八郎も同行していました。昭和62年に復原を行い、平成26年8月より三角西港の歴史および世界遺産のガイダンス施設として利用されています。

旧三角簡易裁判所本館、弁護士等控室、記録倉庫(いずれも国登録有形文化財)

旧三角海運倉庫の写真弁護士等控室の写真記録倉庫の写真

   明治23年に、東排水路の後背地寄りの市街地に開庁し、その後大正9年に現在の場所に移転新築されました。管轄区域は、宇土郡全域、下益城郡2ケ村、天草郡内5村でした。平成4年まで現役の裁判所として使用され、現在は「法の館」として、司法の仕組みを理解する施設として活用されています。本館正面左側には、当時の法廷がそのまま残されています。

三角浦の文化的景観 (国重要文化的景観)

   明治時代に築港された三角西港を含む三角浦は、八代海と有明海を結ぶ三角ノ瀬戸と呼ばれる海峡を通して、古来より流通・往来が連綿と続き、現在までに地形を基盤として人々の生活が発展してきた場所です。

   平成27年に国重要文化的景観に選定された範囲は、この三角ノ瀬戸の地勢を活かし築港され、世界文化遺産に登録された三角西港と背後地および海域の一部を含んだ107.1ヘクタールです。海域を利用した人々と物品の流通往来の場としてだけではなく、中世より風光明媚な場所として知られていました。特に、三角西港の開港以降は多くの人々が訪れ、見物、観光・保養の地として賑わいました。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)、五足の靴(与謝野鉄幹、木下杢太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇)などの文学者らもこの地を訪れており、三角西港での出来事が作品に登場しています。

三角ノ瀬戸    全景

三角ノ瀬戸全景写真

 

 

 

お問い合わせ

宇城市 教育部 文化スポーツ課 文化財世界遺産係

電話番号:
0964-32-1954

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