2024年03月19日更新
「一人になる」
熊本市にある、りんどう支援センター(熊本県ハンセン病問題相談支援センター)の映写会に行きました。映画は国のハンセン病患者隔離政策(かくりせいさく)にただ一人、異を唱えた医師のドキュメンタリーです。
日本の隔離政策は1907年の法律制定から始まります。「民族浄化(みんぞくじょうか)」を掲(かか)げ、戦争に突入していく中、法律は名を変えながら、国民に偏見を植え付け、長い間ハンセン病患者と家族を苦しめました。当時の医師の多くは、患者の周りにたくさんの患者が出ない事実から強制隔離が必要ないことは分かっていました。しかし、国策に逆らえず、どんなに間違ったことでも国民に普及させようとしました。
強制隔離に反対した医師小笠原登(おがさわらのぼる)は1888年、愛知県の寺に生まれました。住職の祖父は医師でもあり、訪れるハンセン病患者の診療もしていました。地域の人も診療に来て、寺で一緒に囲碁や将棋をする、そんな光景を見て育ちます。
スクリーンにカルテの束が映し出されます。小笠原の書いたカルテです。病名は空白。無(む)らい県運動(強制隔離)が激しくなってきた頃から、小笠原は患者を守るために、病名欄を空欄にしたり、隔離の必要のない別の病名を書き入れました。
学会は国策を推進する医師たちが小笠原を攻撃し、所属する寺の宗派も国策に従わないとバッシンク゛しましたが、凄まじい同調圧力を受けても、小笠原は「ハンセン病は不治の病ではないし、遺伝でも、強烈な伝染病でもない」と隔離に反対し続けました。
張られた映画のポスターに、こちらを見つめる白衣の小笠原がいます。その写真の横には、「群れるな ひとりになれ / みんなになるな ひとりになれ」と書き添えられています。晩年、赴任したハンセン病療養所内に設けられた保育所で小笠原は子どもたちに囲まれながら最後の勤務を終えたそうです。
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