2022年03月27日更新
第39回 みかんを食べさせてあげたこと -後編- 2021年(令和3年)12月号
前編 第37回 みかんを食べさせてあげたこと -前編- 2021年(令和3年)10月号
中編 第38回 みかんを食べさせてあげたこと -中編- 2021年(令和3年)11月号から続く
その頃参加し始めた「共に生きる会」というサークルで、私は大輔という青年と出会いました。彼は全介助を必要としながらも施設を選ばず、ヘルパーを雇い、熊本市内に一軒家を借りて暮らす強者でした。
30年前のその当時、養護学校の高等部を卒業後、そんな選択をする人はいません。進路は施設か在宅です。固まった指でキーボードを叩き、音声変換していく彼の語りはとてもゆっくりでしたが、分けられて育てられてきたことへの、今に続く苦痛と怒りが伝わってきました。
彼と研究会に参加したお昼のことでした。Nさんが彼の弁当を開きます。Nさんは隣の学校の先生。いつも大ちゃんの車いすを押し、私を「共に生きる会」に誘ってくれた女性です。暖かな日差しのベンチで、私も弁当を開きました。私が食べ終えると、食事の介助をしていた彼女が声を掛けました。「本田さん、大ちゃんに食べさせてよ」大ちゃんとは冗談も言えるようになり、親しげに振る舞っていた私でしたが、車いすを押す以外の介助は全て彼女に任せていました。「いいよ」と軽く返しましたが、一瞬の「間」がありました。その「間」は初めて食事介助をする私の惑いと不安でした。
弁当を受け取り、隣に座ります。子どもたちが共に育つ姿を話している自分がぶざまな介助を見せてはならない。そんな思いに私は支配されていきました。おかずが先か、ご飯なのか、量はこれくらいでいいのか…。作り笑顔の涼しい顔とは裏腹に体がカアッと熱くなるのを止められません。口元から唾液とご飯つぶをあふれさせる大ちゃんに私は途方にくれました。
介助が終わるのに長い時間がたったように感じました。その時、私は分かったのです。子どもたちは「共に」だったけれど、私は「共に」ではなかった。私が語るのは子どもたちの姿で、私の生き方ではなかった。「共に生きること」を阻み、生き難くしているものは自分の中にあったのです。生活を通して知り合うことの意味を知った出来事でした。
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