2023年04月17日更新
浄水寺跡は豊野町下郷に所在しており、奈良時代末期(8世紀後半)に奘善(じょうぜん)という僧によって創建された寺院跡です。
浄水寺は、肥後国の定額寺(じょうがくじ:国分寺に次ぐ寺格を有する寺院)に定められました。発掘調査によって、寺院や官衙(役所)にしか用いられなかった瓦や、大規模建築物の礎石が確認されています。
浄水寺跡の敷地内には、寺院の創建時期である奈良時代末期から平安時代にかけて建立された石碑が4基残されています。石に文字を彫る文化は、当時大陸から日本に入ってきたばかりで、この時期に作られた石碑は少なく、記録に残っているだけでも、全国で23基しか存在していなかったことが分かっています。また、現存しているのは17基のみで、そのうち4基が浄水寺跡に残されています。
浄水寺碑は、延暦9年(790年)の南大門碑、延暦20年(801年)の燈籠竿石(さおいし)、天長3年(826年)の寺領碑、康平7年(1064年)の如法経(にょほうきょう)碑の4基によって構成されています。また、南大門碑の北側には、天保2年(1831年)に行われた修理の記念碑も残されています。
南大門碑
延暦9年(790年)に建立された角柱形の石碑です。奘善の浄水寺建立にあたっての決意や、寺院の維持費として用意した寺領(寺院が所有している土地)や木材として採取可能な林、典籍の数量が記されています。
燈籠碑
延暦20年(801年)に建立された石碑で、燈籠の竿石部分に文字が記されています。奘善の死後に、真上日乙(まがみのひおと)、肥公馬長(ひのきみのうまおさ)、薬蘭(やくらん)の3名が、奘善の志を継いで燈籠を建立したことが記されています。薬蘭は、奘善の後継者であると考えられます。
寺領碑
天長3年(826年)に薬蘭によって建立された石碑で、当時の浄水寺の寺領の範囲が記されています。浄水寺は、現在の宇土半島を除いた宇城市と同程度の範囲を寺領としていたと考えられています。
如法経碑
康平7年(1064年)に、道入(どうにゅう)という僧が如法経(注1)を埋納した場所を示すために建立した石碑です。道入という人物についての詳細は分かっていませんが、建立から300年後にも、寺院が継続されていたことが分かります。
(注1)如法経・・・・特定の作法に従って写経された経典。
修理記念碑
4基の碑は、もともと別の場所に建てられていましたが、滅失を危惧した地元の住民が、江戸時代の天保2年(1831年)に現在の場所に移し、石製の笠をかぶせ保存措置をとりました。修理記念碑には、その経緯が記されています。
燈籠碑(右) 如法経碑(中央) 寺領碑(左)
南大門碑(右) 天保二年修理記念碑(左)