2023年04月17日更新
相良堂は豊野町糸石に所在しており、響ケ原の戦い(注1)で討死した相良義陽(よしひ)とその家臣を祀るための供養塔です。
戦国時代末に、義陽と阿蘇家臣の甲斐宗運が戦った地である響ケ原に建立されたもので、ここでは義陽をはじめ数百人が討死したと伝えられています。
供養塔は、戦いの後に、義陽の家臣であった犬童頼安によって建立されました。碑には、阿弥陀仏を意味する梵字と義陽の法名が記されています。
享保15年(1730年)には、中山手永の総庄屋であった中山孫左衛門が、碑を保護するために堂を建立しましたが、平成28年(2016年)の熊本地震で倒壊しました。現在は、地元の有志によって新しい材料で堂が新設されています。
(注1)響ケ原の戦い(天正9年(1581年))
薩摩の島津義久に阿蘇氏を討つことを命じられた義陽と、阿蘇家臣である甲斐宗運との戦い。天正9年(1581年)12月1日に、義陽は八千の軍勢をもって八代を出発し御船に向かい、小川と豊野の境にある娑婆神峠に陣を構え、赤峯尾城(堅志田城、現在の美里町)、豊内城(現在の甲佐町)を攻め落としました。
翌日の12月2日に、義陽は陣を響ケ原に進めて戦勝の宴を催しましたが、甲斐宗運はこれを不意打ちしました。突然の奇襲に総崩れとなり、勇士70余人、雑兵200余人が討たれ、義陽もまた戦死しました。
供養碑
新設された相良堂