2023年04月17日更新
豊福城跡は松橋町豊福に所在しており、平野の中にある標高20メートルの丘陵にあたります。
豊福城は、県内の数多い中世城跡のうち、築城当時の地形を損なうことなく残されています。
城跡は東西約265メートル、南北約285メートルの楕円形状の独立丘陵地で、面積は約59000平方メートルです。周囲は外堀によって囲まれ外郭を形成していますが、北側は堀切により南北に外郭が分かれています。
主郭(本丸)は丘陵の頂部にあたり、東西48メートル、南北26メートルの長方形状の平地になっています。本丸の東側と北側には内堀が掘られており、その両端は外堀に続いています。
築城年代については明確な記録が残っていませんが、建武元年(1334年)に名和長年の子義高が八代郡を領した直後に、内河彦三郎義真が代官として下向していることから、その時に築かれたと考えられます。その後、名和氏、相良氏、阿蘇氏の領地に囲まれた位置にあったことから、三者の重要拠点として頻繁に攻防の舞台となりました。
天正15年(1587年)に、当時九州一帯に勢力を広げつつあった島津氏が、豊臣氏の征討をうけ、本国に封じ込まれるまでの約250年間に、多くの攻防が繰り広げられました。その後の記録はありませんが、自然廃城になったものと思われます。
豊福城跡