2023年04月17日更新
豊田城跡は、松橋町浦川内の丘陵上に所在しています。
丘陵の北側は南側より1.5メートルから2メートル程高く、頂部には長径30メートル、短径19メートルの楕円形を呈した平地があり、これが本丸と考えられます。また、南東側には堀切が、南から西側にかけて帯曲輪(おびぐるわ:階段状の防衛地形)が設けられています。
豊田城は、阿蘇氏が南方に対する第一線の防御のために築造した城と考えられ、天正年間(1573年から1582年)頃には阿蘇家の家臣である村山丹後守(たんごのかみ)が城代として在城したとされています。
天正9年(1581年)に起こった響ケ原合戦の際に、人吉領主であった相良義陽が豊田城を囲んで攻めましたが、村山丹後守の留守を預かる城番家老の湛淵甚吉がよく城を守り、事なきを得たことが『肥後国誌』に記載されています。
豊田城跡