2023年04月17日更新
曲野城跡は松橋町曲野に所在しており、標高20メートルの丘陵地に立地しています。
丘陵の東・南・西側は深い迫田で、北側の一方のみが主台地に続く要害の地形です。
本丸は、丘陵上の広さ1ヘクタール余りの平地にあたると考えられ、館(構造物)はその南西先端部付近にあったものと推定されます。丘陵の南及び西側は急崖をなし、東及び南西の斜面には帯曲輪(おびぐるわ:階段状地形の防衛構造)が見られます。また、東側には土塁と空堀跡も認められます。
曲野は「勾野」とも書かれ、元は阿蘇家の社領であり、弘治・永禄年代(1555年から1569年)の阿蘇家臣録には、城主は鈎野民部少輔(まがのかきべしょう)と記されています。
また、一説には、弓の名手であった辻姫が城主であったという伝承もあり、「お辻さん」や「辻の城」とも呼ばれています。この他にも「市正(いちのかみ)の城」「法源院殿の城」などとも呼ばれており、城主が「市正」という位名を名乗っていたことや、「法源院」という法名であったことが由来していると考えられます。
史実としては、天正6年(1578年)に薩摩の島津氏が八代及び豊福を支配していた相良氏を攻め、さらに宇土城の名和顕孝(なわあきたか)も攻めて支配下としており、このとき曲野城も攻められ落城したものと考えられます。
現在、この地域には城があったことを示す囲(かこい:城の区域を表す言葉で、栫とも書かれる)という地名が残っています。
曲野城跡