「曲野城跡」詳細ページ

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2010年2月5日

曲野城跡の写真宇城市曲野橋川3082番地〜3118番地にまたがる畑台地と周辺の山林を含む一帯にこの曲野城跡はあります。
 ここは当尾台地が西に延びてさらにまたそれがいくつかの舌状台地を形成している中の一つで、東・南・西は深い迫田となり北の一方だけ主台地に続いているという要害の地形です。
 
 従って主郭をなすのは舌状の畑台地ですが広さは1ヘクタールあまり。館(構造物)は恐らくその先端部付近にあったろうと思われます。南は急崖をなし、東と西南の斜面には帯曲輪(おびくるわ)が見られ、また西も急崖となっています。なお東の方には、土塁と空濠跡らしいものも認められます。
 
 さてこの城はこのあたりでは「お辻さん」と呼ばれていますが、これはこの城の城主が「辻姫」と呼ぶ女性であったという伝承によるものであり、また中性の弘治・永禄年代(1555年〜1569年)ごろの阿蘇家家臣録には城主を鈎野民部少輔としているからだといわれています。従って「鈎野城」とも呼ばれています。さらにまた「市正(いちのかみ)の城」とか「法源院殿の城」とかとも呼ばれるらしいのですが、これは城主がいつのころか「市正」という位名を名乗っていたことがあり、また、「法源院」は城主の法名と考えられています。
 
 天正六年(1578年)薩摩の島津氏が八代・豊福をも領した相良氏を降し、さらに宇土城の名和顕孝をも攻めてその麾下となしているから、多分このとき曲野城も攻めて落城したものと考えられます。
 
 今この城があったことを示す囲(城の区域をいうことばで、古くは栫とも書かれている)の地名が残っており、西南の帯曲輪には人家が建てられています。


現地掲示板説明文

 曲野は勾野ともいい、阿蘇家の社領で弘治永禄の頃(1555年〜1569年)家臣鈎野民部少輔が在城したと伝える。また一説には辻姫という勇婦が城主であったとも伝えられるが辻姫は鈎野民部少輔の妻か娘で城主の死後、その代理として城主となっていたのではなかろうか。現在は、畑地、山林となり傾斜面の山林中に空壕のあとが残っている。里人はここを「お辻さん」「辻の城」「市正(いちのかみ)の城」「法源院殿の城」などと呼んでいる。

詳細

所在地:宇城市松橋町曲野



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