「松合目鑑橋(めがねばし)が架設200周年〜のぼり旗を立てて児童らと祝う〜」詳細ページ

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2020年11月24日

 松合目鑑橋(めがねばし)の上でのぼり旗とともに児童が記念撮影


 11月19日、不知火町松合の松合目鑑橋(めがねばし)の架設200周年を祝い、地元で記念行事が行われました。

 松合小学校で開かれた講演会では、八代市東陽石匠館の上塚寿朗館長が講演。上塚館長は「補強もなしに自動車が通れるこの年代の石橋は他にはない。三種類の石が使い分けられており、加工も素晴らしい。当時の松合の財力や人脈、情報力を今に伝える繁栄の証。市民や県民の誇りとして、これからも大事にしてほしい。」と話しました。

 講演会終了後には、児童や地域住民らによって目鑑橋から国道266号まで100本以上ののぼり旗が立てられ、地元のお祝いムードを盛り上げていました。

 

↓(下記写真について)のぼり旗を立てる松合小児童
のぼり旗を立てる松合小児童の写真



↓(下記写真について)松合町並み保存会によるパンフレット
松合町並み保存会パンフレット表の画像、松合の町並みの歴史、松合は漁業と醸造・廻船で栄えた町です。肥後第一の漁師原と称され、水揚げされた魚は藩用に供されました。文政年間には細川藩で最初の魚市場が開かれ、魚市場見しめ役が置かれたといわれています。酒造りも江戸初期には始められ、万屋・財布屋・阿波屋・新酒屋で千石程の酒が造られました。海産物加工品は五十集と呼ばれ、帆船で近隣諸国に運ばれました。中には下間から関西まで販路を拡げた業者もあり、「松合いさば」で知られました。松合は火事が多く、特に文政9年(1826年)から天保2年(1831年)にかけて四度の大火があり延871戸が焼失しています。その為、被災者救済と防火対策は至上命題として、代々の惣庄屋にうけ継がれました。海岸を干拓して屋敷新地を造って被災者を移住させ、跡地は火除道とし、土蔵白壁の家造りをすすめ、同時に3カ所の舟溜りを設けて港を整備しました。現在の町筋はその時出来上ったものです。この工事は、松山手永の惣庄屋三隅丈八の計画指導で始まり、後任の山隈権兵衛によって、安政2年(1855年)に完成しています。以後、松合は肥後随一の漁港として繁昌します。特に明治維新以後は、天草や島原・五島・薩摩などからも魚の水揚げがあり、出船千艘・入船千百艘と謳われました。一方藩政期盛んであった酒造りは、御国酒と呼ばれる赤酒であったため、維新を境として全く需要がなくなり、酒蔵は醤油業に転換します。新たに米屋・天満屋の参入もあって松合は県下有数の醤油の町に変わり、その繁栄は昭和十年代まで続きました。祝 架設二百年 松合目鑑橋 題字揮毫 宇城市教育長 平岡和徳、松合目鑑橋と昔の港町、松合の街並み保存会 会長 坂本順三、春の川に架かる松合の土橋が、目鑑橋に造りかえられて今年は二百年になるそうで、みんなで橋の長寿をお祝いしましょう。松合小学校に通う頃、私の家は集落の中心より東側にあり、橋を利用することは殆どありませんでしたけれど、今は店が中央にあり酒屋をしていますので、販売や配達などで松合目鑑橋はしばしば利用しています。昔のことですが、港町松合は「出船千艘・入船千百艘」と聞いていました。江戸時代に肥後の国を治めていた細川のお殿様は、松合から魚を取り寄せていたそうで、港は新鮮な魚を積んだ船で大賑わいだったそうです。古文書資料、現代語訳、松合村中通りの土橋四カ所内 去る文政3年一カ所は目鑑橋、一カ所は石橋にかけ直し仰せ付けられ、残り二カ所は…、松合目鑑橋架設二百年を祝して、宇城市長 守田憲史、文政3年に本橋が架設された頃、松合地区は海上交易の要衝として栄え、人や荷の往来が盛んでした。当時の方々が待ち望んでいたものであったことは想像に難くありません。その石橋は、現在でも車両の通行に耐え、現役で道路橋の役目を果たしており、市の指定文化財となっています。市では、石橋は「歴史文化的価値保存の観点から、改築は原則行なわない」こととしています。今後も、現役の石造り道路橋として重要な役割を担っている松合目鑑橋は、人と自然の関りを表す道路橋として、また地域の誇りとして、重要な地域の財産と認識し、未来に引き継いでいきます。

 


松合町並み保存会パンフレット裏の画像、松合眼鏡橋架説二百年にちなんで。二百年ほど昔のこと、松山手永会所から宇土郡内の世話人野田しまうえもんへ、いくつかあった土橋のうち松合のものを、壊れにくい石造目鑑橋に架け替えるようにと指示がありました。それで、今から二百年前の文政3年1820年に、橋の長さ五間、9メートル、幅二間、3.6メートルの目鑑橋が造られました。このことは、昔の記録古文書に書いてあったのですが、発見したのは松合出身の郷土史家、嶋谷力夫さん、故人です。当時は江戸時代ですが、港町にあった松合は漁業をする人や商いをする人が多かったそうです。さて松合橋が丈夫な目鑑橋になると、人の行き来や物を運ぶのが便利になりました。松合目鑑橋はクルマが使われるようになってからも松橋や熊本へ行くのも、三角や天草へ行くのも好都合でした。今でもバスやトラックが通り立派に使われています。松合目鑑橋がめでたく二百歳になったので、今までお世話になったことを思い出して、感謝しながら渡りましょう。日本の石橋を守る会、会長、上塚尚孝。素晴らしい松合目鑑橋。松合目鑑橋の架説二百周年たいへんおめでとうございます。現在、熊本県下には340基のめがね橋が現存していますが、二百年を超える橋で現役の車道として自動車が通行しているものとしては唯一のものとなります。みなさんがよくご存じの通潤橋が架設されたのが1854年ですから、それよりも古い架設ということです。そんなに昔に造られた橋が現役の車道として使われている事は驚きです。他にも特徴がいくつかあります。まず3種類の石が使われています。輪石は宇土市産の馬門石、壁石は天草産の砂岩、基礎の石は弱溶結凝灰岩と異なる石を使ってあります。また輪石をよく見ると表面の石の縁を額縁のように削ってあります。これは江戸切こぶ出しという手間のかかる加工です。またアーチ部分を下から見ると一つの要石、アーチ中央部の石の後ろには二列の石が並べてあります。このように二百年前の橋が現役で使われていることだけでも珍しいことですが、当時の松合の繁栄ぶりが表れている松合目鑑橋は大変に貴重なものだと言えます。八代市東陽石匠館、館長、上塚寿朗。熊本県内の主なめがね橋年表、1774年、洞口橋、山鹿市。1802年、豊岡橋、熊本市。1808年、門前川橋、御船町。1818年、雄亀滝橋、美里町。1820年、松合目鑑橋、宇城市。1829年、二俣橋、美里町。1847年、霊台橋、山都町。1848年、高瀬目鏡橋、玉名市。1854年、通潤橋、美里町。1854年、石水寺門前眼鏡橋、人吉市。1855年、八勢眼鑑橋、御船町。1860年、立門橋、菊池市。1863年、岩本橋、荒尾市。1877年、明十橋、熊本市。1878年、楠浦の眼鏡橋、天草市。1883年、下鶴橋、御船町。1929年、谷川橋、八代市。


松合町並み保存会パンフレット(PDF 約2MB)


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