「浦島屋」詳細ページ

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2010年2月18日

浦島屋

 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、明治26年7月22日、長崎からの帰途に立ち寄り「夏の日の夢」と題した紀行文の舞台となった旅館です。明治38年に解体され、中国の大連に運ばれましたが、平成5年、設計図を元に復元されました。

 1階はケーキやコーヒーなどが楽しめる喫茶コーナーのほか、三角西港築港当時の資料や写真が展示されています。2階には、築港当時の資料と小泉八雲に関する資料が展示され、いろいろなイベントの開催にも使われています。

浦島屋の建設

 当時の熊本県知事 富岡敬明は、天草郡大浦村の富豪で県会議員の小崎義明たちに、「熊本には、東京から見える客を泊める立派なホテルがないので、ホテルを開いてほしい。今後、三角に港を造る。その後は、鉄道を計画するからホテルを造らないか」と頼みました。小崎義明と熊本の実業界の人々の共同出資で、倶楽部ハウス(迎賓館的施設)が建設されました。

 ところが、両派に分かれて仲たがいが起こり、当時の価格で1万円で、この建物は三角港築港に関わった小崎義明が譲り受け、屋号を「浦島屋」と名付け、ホテルとして同郷の山下磋一郎・芳夫妻に経営を託したといわれています(明治20年には、建設が終了していました。

 建設は、小山秀之進(のちに秀 ひいで)といわれています。小山秀は、天草の御領大島出身(現 五和町)の建設請負者で、長崎の大浦天主堂をはじめ、長崎のグラバー邸、リンガー邸、オルト邸などを建設し、これらは現在、国宝ないし国の重要文化財に指定され、高く評価されています。

浦島屋の概況

 浦島屋は400坪の敷地に300坪の建物、その上に倉庫7棟という家でした。少し離れたところに和風の菊水という名前の別館もあったといわれます。女中さんはすべて天草出身で、料理人を合わせて50人から60人の従業員がいたといわれます。

 開港式典の時は、政府高官や来賓の宿舎、休息所となりました。このような建物が熊本に当時なかったので、台湾に向かう北白川能久親王や三井家の人々や磋一郎の知人たちが訪れて宿泊しました。宮様が宿泊されると、布団や使われた食器などを頂きたいという土地の人々が大勢押しかけたといわれています。

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と浦島屋の関係

 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が三角の浦島屋を訪れたのは、明治26年7月22日の朝です。長崎への一人旅で、長崎の暑さが地獄の暑さで、午前3時に出て、三角港に午前9時に着き、浦島屋で朝食を取り、浦島屋のことを「極楽」といい、女中さんたちは「天女」、女将さんは「風鈴のような涼しい声」「惚れ惚れとするような愛嬌のある婦人」「国貞えがくところの青蛾の小婦」「胡蝶の美人といったおもむきである」と評価しています。

 ハーンは、熊本のことをひどく批判している中で、珍しくほめていることは、余ほど、浦島屋の雰囲気が良かったのではないかと思われます。

浦島屋のその後の経緯

 明治29年5月11日には、富岡敬明の頌徳碑の除幕式に浦島屋に宿泊しています。明治37年8月には、浦島屋は、ホテルから日露戦争の傷病者の病院に変わりました。明治38年、日露戦争が終わり、旅順、大連が日本の管理課になると、浦島屋は、国が買い上げ、解体され、大連で日本式旅館として移転しました。

【詳細】

所在地 : 宇城市三角町三角浦(三角西港公園内)

アクセス : 松橋ICから車で50分、熊本市内から国道57号線を西へ60分

駐車場 : 約30台


お問い合わせ

宇城市 教育部 文化課 文化財世界遺産係
電話番号:0964-32-1111この記事に関するお問い合わせ






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